カタカナ語

「アジェンダ」や「コンセンサス」という言葉に代表される、使うとウザがられやすいカタカナ語。なぜカタカナ語を多用する人に嫌悪感を抱く人がいるのでしょうか?

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カタカナ語はなぜウザい?

前提として、カタカナ語を多用されてウザいと感じるかどうかは人によります。僕もどちらかといえば苦手。

多くの人がカタカナ語を使われてウザいと感じる理由は2つあると思います。1つ目は、知らないカタカナ語を連発されて話の内容が入ってこないもどかしさ。2つ目は、さも「もちろん、あなたも知ってるよね?」「知らないってことないよね?」みたいに、自分が優位に立ちたいがために、あえてあまり一般的ではないカタカナ語を使っているという魂胆が垣間見えるから。もし話し手にそういうつもりが無かったとしても、聞き手はそう受け取ってしまうでしょう。

一般的ではないカタカナ語というのは、逆に言えば専門的なカタカナ語ということになります。ある特定のジャンルに詳しい専門の人同士での会話においては、専門的なカタカナ語の意味は理解されているため、コミュニケーションを円滑にしてくれます。しかし、門外漢の人に話す時にも安易に専門的なカタカナ語を交えてしまうと、伝えられることも伝えられません。

要するに、物事を聞き手に伝えようとする配慮が欠けているように見えるからです。もっと俗っぽく言うなら、自己顕示欲の強い意識高い系が、聞き手に対して難しいカタカナ語を浴びせてマウンティングしているように感じるからです。

しかし、カタカナ語を過剰に嫌うのも考えものです。なぜなら、誰でも理解できる日本語ではなく、あえてカタカナ語を使う必然的な理由もあるからです。次は、そのあたりを検証していきましょう。

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日本語に訳すと厳密な意味合いが変わる外来語がある

当たり前ですが、言葉というのはその国、文化圏で独自に発展しています。ある外国の単語とまったく同じ意味を持つ日本語の単語が、必ずしも対になって存在しているいうことはありません。

例えば、エビデンス(evidence)は証拠、根拠、論拠などと訳すこともできますが、あえてエビデンスという言葉を使うことで、「学術的」「科学的」というニュアンスを内包することができます。それなら「科学的証拠」と言っても良さそうですが、そこはカタカナ語特有の説得力や印象の強さを重視しているのでしょう。「あなたの持ち場で頑張りなさい!」と言われるより「あなたのフィールドで頑張りなさい!」と言われた方が、インパクトがある分なんか印象に残りますよね。外来語やカタカナ語は、そういう意図を持って使わる場合も多いのだと思います。

専門ジャンルで共通理解になっているカタカナ語がある

一般人には馴染みのないカタカナ語でも、ある専門ジャンル界隈では当たり前のように使われていることは少なくありません。

例えば、これは純粋なカタカナ語ではありませんが、音楽好きの間では好きな音楽を探すことを「ディグる」と言ったりします。また、ここ数年でかなり大衆化された「ディスる」という言葉も、ヒップホップ界隈においては90年代後半には一般的なっていたようです。

なので、聞き慣れないカタカナ語を使う人がいても、安易に「この人、マウンティングしてきてるな」と捉えない方が良いでしょう。その人にとっては、日常的に使うナチュラルなカタカナ語である場合もありますから。

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日本語に代替できない新しい外来語がある

「パラダイム(paradigm)」という外来語を「考え方」と訳し、「最初から考え方って言えよ!」とせせら笑うような文章をSNSで見かけたことがあります。ですが、「パラダイム」を「考え方」と訳すのは間違っています。考え方と訳しても意味は通るかもしれませんが、それではズレた理解になってしまいます。

パラダイム(paradigm)とは、ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことです。狭義には科学分野の言葉で、天動説や地動説に見られるような「ある時代を牽引するような、規範的考え方」をさします。

出典:三省堂 WORD-WISE WEB

別の言い方で説明するなら、「パラダイムとは、その時代や分野において、多くの人が大前提としている思考の枠組み、考える際の土台となるもの」と言っても良いでしょう。このように、「パラダイム=考え方」では断じてありません。

そもそも、パラダイムという言葉は、1962年に哲学者トーマス・クーンによって提唱された比較的新しい概念言葉です。それを「考え方」といったありきたりな日本語で言い表せるはずがありませんし、訳して良いはずもありません。だからこそ、日本ではそのままカタカナで「パラダイム」として使われるわけです。ちなみに、パラダイムシフトは、時代のパラダイムが別のステージに移行することを意味します。

カタカナ語は徐々に一般化される

一般人には馴染みのないカタカナ語も、時の流れによって徐々に一般化されていきます。もちろん、すべてのカタカナ語が広く一般的に利用されるようになるわけではありませんが、どんなカタカナ語も初めはマイナーな存在なのです。

例えば「トーク(talk)」というカタカナ語。昔は「あの人は喋りが上手い」と言っていたところを、今は「あの人はトークが上手い」とカタカナ語で言い換えても何の違和感もありません。おそらく、最初は「どうしてわざわざカタカナ語で言い換えるんだ?」と違和感を持つ人が多かったことでしょう。しかし、時の流れでいつの間にか一般化してしまったのです。

カタカナ語にはパワーがある

これはとても表面的なことかもしれませんが、カタカナ語にはパワーがあります。「あの人は創造性豊かだ」と言うより「あの人はクリエイティヴだ」と言った方がなんだかカッコいいし、文脈の中であえてカタカナ語を交えることで、聞き手や読み手に強く印象を残すことができます。乱発すると滑稽ですが、ここぞというポイントで使うと効果的。

カタカナ語をバカにしてはいけない

最近、カタカナ語を使う人をバカにする傾向が見られます。個人的にも、明らかに自己顕示欲のためにカタカナ語を連発しているような人を軽蔑してしまう気持ちはよく分かります。

よく言われる格言めいたことに、「本当に賢い人は、難しいことを誰にでも理解できる優しい言葉で説明することができる」というものがあります。最近だと、2ちゃんねる創設者としても有名な西村博之氏(ひろゆき)が同様のことを言ってるとかで、その影響を受けてる人が多々見られます。確かに、それはその通りだとは思います。しかし、世の中には優しい言葉で説明できることばかりではありません。聞き手側に前提となる知識がなければ、優しい言葉だけでは端的に伝えることができないことも多いのです。

これまで書いてきたように、カタカナ語が使われているのには何かしらの理由があります。その背景を知ることで、自分の語彙力の向上や概念知識の習得が期待できます。したがって、本当に賢い人は、カタカナ語の話者を上から目線でバカにする行為こそ無意味だと思うのではないでしょうか。

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